昭和55年に生野高校を確か卒業している。確かというのは専門学校の面接が重なり卒業式に出ておらず卒業証書を手渡された記憶がないからである。
今の生野高校の記事を見ると在校生は明るく、いじめも少ないようで素晴らしい。
当時私は第7学区の中学で成績がいい生徒が集まった生野高校の勉強についていけず、柔道部にも在籍したが歯を折ったり、腰を痛めてすぐに退部した。
私には絶対忘れてはないらない記憶がある。それは1年生の時のA〇君。
同級生A〇君が夏休みに自殺していること。当時の担任や学校は何の調査もせず、休み明けの朝礼でただ淡々と彼が死にましたと告げたこと。
T〇がそのいじめの首謀者だったと今も確信しているのはA〇君の死後、私がいじめられたので。私が自殺しなかったのは性格が鈍感で、また少し柔道をかじったせいでT〇より体力が勝っていたからではないだろうか。T〇の言葉の暴力やひつこさは今思い出しても尋常ではなかった。夏休みに入る前に
A〇君は私を通じて柔道部に練習に来たことがある。今から思えば私に助けを求めていたのかもしれない。柔道は咳が出るのでできないと私に告げたのを覚えている。
高2の時はクラスにいじめる生徒は誰もおらず平和だった。
大学時代、歯列矯正の助手にかなりいじめられた。おい国立大学の医局でチンチロリンしている助手にハンコもたすなよ。私はいじめられやすいタイプか馬鹿だったなのかもしれない。ただ大学の時は他の同級生もかなりその権力の前にいじめられたので仕方ないとあきらめていた。当時歯学部の学生は担当教員のハンコを押してもらえないと単位がもらえないつまり、卒業できなかったのだ。私は今も歯列矯正は好きだが、教授の口頭試問がうまくいったそのあとすぐ、その助手が「藤井これで卒業できたと思うなよ」と捨て台詞言われた。私が大学を卒業するとき、
同級生で大学に残る連中に、お願いだから後輩だけはいじめるなよ、と頼んだものだ。